啓子 | わたりろうか怒

啓子

 啓子は地味であった。地味という言葉はとても広がりのあるものであるが、啓子はその広い守備範囲ですべての地味を悉くキャッチしていた。それはイチロー選手がエリア51と呼ばれるように、啓子の背中に描かれた小さな魚のタトゥーからエリア魚と呼ばれるべきものであった。広大な地味を我が物とする啓子の背番号魚は、彼女の仕事内容、概ねキーボードを叩き誰かが作った文書をなぞる、にも関係せず、つまりは不似合いに思えるものであったが、その魚は熱帯魚などではなく、旬のサバであり、青く光る鱗まで再現された見事な出来栄えは、その少ない男性経験を芳しくないリアクション集といった様相に規定していた。なぜ彼女はサバを描かねばならなかったのか。それは彼女が19歳という年齢を通り過ぎてきたからである、としか説明できないものである。

 啓子はいわゆる下町と呼ばれる地域で幼少期を過ごし、その後高級住宅街と呼ばれる地域に引っ越した。そのとき彼女は既に初潮を迎えており、周囲の男子はみな頬や額にニキビをつくっていた。あるとき彼女に事件が起こった。

 初夏に差し掛かり、教室に夏服が満ちたころ、啓子は机から消しゴムを落とした。授業はとても静かで、啓子は自分が落としたものがプラスティックや金属のように大きい着地音を鳴らす材質で構成されてなくてよかった、と安堵したのだが、安堵していてはノートに書かれた「中学デビュー/体験率」なる、昨日部屋で一人読んだ雑誌に書かれてあった中で特に印象的だったフレーズは消えない。私は明らかに失敗している。デビューにだ。そもそもデビューという行為が私に関わることだとは、露ほども考えなかった。であるから私はスポーツブラに甘んじているし、細工の施された下着着用組に入ることを許されないのだ。ゆえに私は体験率という統計の母集団には含まれない。私はそういった女という性にまだ参入できていない。しかし私はすでにスポーツブラを着用している。これはいったいどういうことなのだろう。私はどこにいるのだろう。パンツにくまさんがプリントされていることと、ブリーフを穿いた経験がないことは、一致しないことなのであろうか否か。といったようなことを考えつつ、消しゴムを拾うべく体を傾けたとき、斜め前の男子がこちらを向いていることに気がついた。彼は私と目を合わせる前、もう少し下、想像通りならば、重力が引っ張った結果空いたスペースから仄見える、私のスポーツブラに双眸を向けていたのではないか、という啓子の推測は彼の素早い勃起により明晰な結論を得る。彼女は知った。彼にとって私は紛れもなく女であり、私の尻から二ミリとあけずクマさんが笑っていようと、見事なブラジャーを装着していなかろうと、楽しかった思い出は何と問われれば幼馴染の男の子と裸で川を駆け回ったことですと答えようと、彼は私で勃起できる。私は母集団に組み込まれていたのだ。しかしそれをまだ認める訳にはいかない。たとえ私が女であろうとも、私はそれを認知していないのだから。補足するならば、彼女のこの考えには一部間違いがある。一つあげるとするならば、中学生男子はたとえ対象が電化製品であろうと内なる男というものが性器を勃起させることがある、ロデオ中の存在であること、それは啓子の現在と、互換性がないものでは決してないことを、彼女が知らなかったことに起因するものである。